まだアップしていないものの中にも、真田幸村ゆかりのお寺なんかがありました。
遠い昔の話に感じますが、こうしてその辺りを実際に歩いてみると、たかだか400年前の話なんだと気持ちが変わります。
大阪城と言えばその後も明治維新の時に徳川慶喜が逃げた城としても出てきますね。
戦場にはなりませんでしたが‥‥。
八劔神社にやってきました。又も裏門(西口)のようです。{汗} |
八劒神社と門柱には書かれているように見えますが八劔なんですよね。 |
旧漢字も普通に変換できるようにしてほしいですね。 |
本殿です‥‥よね‥‥手前にある小さな祠はなんでしょうか。野神社と言うそうですが‥‥ |
西口の鳥居です。真ん中が通れなくなっているのは‥‥深い意味じゃない気がします。 |
蔵のような建物に3社相殿されているようです。辨天社、戎神社、幸神社です。 |
幸神社は初めて聞く名前ですが御利益ありそうですね。{笑} |
鴫野の戦いで上杉景勝が本陣を置いた場所だそうです。 |
この木は根元が凄いです。木を神とした意味が分かる気がします。 |
隠退記念と台石に書かれた像と、郷土宮角力米川部屋頭取碑だそうです。 |
又も日露戦争の記念碑です。この戦争の重大さが伝わります。 |
日露戦争の碑に植樹と書かれていたのはこの楠の事でしょうか。 |
正直木ってそれぞれ印象が違ったりするのでなかなか正確に見分けるのが難しい気がします。
そして又もあった日露戦争の碑。
明治三十七八年ってもう完全に覚えちゃいましたよ。
1904年でしたよね。
私が生まれた頃はまだ、この戦争を経験した人が大勢生きていた事になります。
まだそんな遠い昔の話ではないのですね。
そりゃこれだけ石碑が残っていても不思議ではないですか。
それでも他と比べてこれだけ多いのは、やはり重い戦争だったのでしょう。